昭和44年10月16日 朝の御理解
【入力者: 末永 満】 御理解第81節
このみ教えは何でも同じですけれども、特に信心は油断が大禁物だと、まぁ、いうことを教えておられるだと思うんですね。例えて申しますと、お商売をさせて頂いて、段々商売が繁盛していくということは、段々(とくいさん)も増える、売れ上げも増していくと、ね。その、いわば、一途を辿っていくおかげを頂いておる時には、決して油断がない時ですね。
ちょっとそこに売れ上げが、まぁ、今月は落ちたと。その落ちた原因はどこにあったかと、ということを本気で追求して、はは、こんこんところが売れ上げが落ちた原因だったなと、その次の月のそこを改めてこう一段と商売を熱心にさせてもらう。
そこが、また、おかげを頂く、というようにですね、例えば売れ上げがはろうが、落ちようが、な、なかろうがですね。そこんところを追求していかない商売人であったら、その商売は繁盛しない。(?)は、もうただ食べてさえいきゃよか、もうぼちぼち。
(?)(?)さえいきゃよかといったようなお商売では本当の繁盛にはならない、ね。ですから、売れ上げ落ちたと、いったんその売れ上げが落ちた原因を追求していくという私は熱心さというものが必要だ思いますね。
子供が言うことを聞かない。で、神様におすがりをする。子供のことは、まぁ、親のことだといわれるぐらいですから、子供が言うことを聞かんならこれは私の信心の不行き届きと思うて、そこを改めて願っていく。こどもがおかげを、おかげのいうなら、印を見えてくる、見せてくれる。
ほんとにこっちは少し改まってみりゃ、ね、いわば、言うことを聞かん子供が言うことを聞くようになる印が見えてくる。これは皆さんも体験あろうと思いますね。改まって願うと、おかげの印が見えてくる。
ですから、それをずっと進めていきゃいいのですけれども、少しそれがおかげを頂きますと、もう気を緩める。気を緩めるとすぐ後へ戻るぞと仰る。気を緩めるからすぐ後へ戻ってしまう。又、言うことを聞かんやつ、とうとう言うことを聞かん子供で終わらしてしまわなきゃならん。
一つなら私共が願っておるところのおかげという、一つの問題でもそうである、ね。今日だからそういう小さいというかね、一部分の信心とでも申しましょうか。改まって願えや、おかげの印がすぐ見える。
だからいよいよ改まっていくことのに焦点をおく信心させてもらや、おかげが頂き、いわゆる、おかげを頂きぬくことができるんですけれども、ちょっとおかげの印が見えると、もうそれで気を緩める。ですから、それがおかげが頂きぬくことができん。いわゆる、本当のおかげになってしまわない。ということは、どういうようなことだと。
今朝からこの八一節を頂かせてもろうて、もうそれこそ繰り返し繰り返し頂いておることです、ところですからね。どういうふうにここんところは今日はこの八一節を頂いたらいいだろうかと、思わせて頂いておりましたら、金光教という字をもって頂いた。
金光教。金が光る。教えと書いてあるわけですけどね。それから私、まぁ、ヒントを得たというわけですけれども。金というのは、まぁ、おかげという意味で頂かなければならんだろう。光というのは、私は力とてもいようか、まぁ、お徳とてもいようか。信心させて頂いて、おかげを受けて初めて神様が分かるんです。
成る程神様だなと、ね。おかげが分かるけれども、信心は分かっておるというわけじゃない。まぁ、いうなら、神様の心が分かっておるというのではない。おか、金を頂いたら次ぎの光を頂かにゃいけん。
いわゆる、光を頂くということは、やはり、神様の心が分からせてもろうて神様の心に沿うた生活、生き方ができるようにならなければならん、ね。そこから頂けてくるところのおかげ、ね。お願いをして頂いたというおかげ、ね。
金という字そんな字だと思うんです。お願いをして頂いたおかげ。光ということは、ね、そこから信心が少し分かり、神の心が分かる、神様の教えが分かってくる。神様の心が分かってくる。そこで神様の心に沿うた、叶うた生き方ができるようになる。
そこに光が頂ける、力が受けられる、ね。神様の心に沿うた生き方。そういう生き方がです、身に付いてくるとです、油断が、油断はまずせんで、で済むというかね、油断はできません。商売をさせてもらうのに、ね、まぁ、売れ上げが落ちたと。落ちたらすぐに売れ上げの落ちた原因を追求するという態度が、しょ、その商売人の心の中にできたらね、まぁ、いわば、だい、安心だということです。
いわば、商売が(?)になったり、いろいろ落ちたりすることをです、いろんなものの所為にする。近所に、おど、同じ商売ができたからじゃろうとか、ね、その事故の所為にしたり、他の所為にする。
肝心要な、根本のところ、この頃はうちの商売人が、先生、その買いでおらんか。むしろに、高くはないだろうか。親切がかけておるのではなかろうか。とにかく、サービスぐらいが、ね、悪いじゃなかろうかというような、その確信に触れた追求をしない、ね。
商売人がね、そういうような考え方がすぐできるようになったら、その商売は絶対繁盛します。もう売れ上げがなかならなかで、それがもう当たり前ごつなってしまう、いわゆる、マンネリになってしまう。
もうどうせ田舎じゃけん、こんぐらいなことと、いうように、ですから、いつまで立っても、やはり、田舎商人で終わってしまわなきゃならん、ね。いかに、田舎だって、町の者が田舎に買い物に来てくれるぐらいな、私はね、い、勢いというかね、田舎の人が例えば、町へ町へと(?)出ていく。
反対に町の人が田舎に買いに来るぐらいな私は、工夫をしなきゃいけん。それにはです、例えば、田舎まで行く、行くぐらいなことじゃない。品物が立派で、安くて、そして、店全全体が親切である、サービスがいいというのはね、もしからでも田舎に買いに行くというぐらいなね、私は、そのいき、その行きというものがなかなければならんと思うんです。
例えば、田舎の商売人であるなら、ね、とにかくもう(?)叶わん、大衆のあれには叶わん。(?)(?)。他のことでは叶わんで、これだけは自分ことが自信があるといったようなですね、ものを作っていこうともしない、追求しない、もう始めから諦めとる。
もう今日は雨の降るけん、お客さんなか、自分で決めておる。(はら)も農繁期だから、お客さんが少ないちいう(きゅう)仕事、ね。そんなことはない。百姓が忙しいなりゃ、百姓しとらんもんが暇なるから、百姓しとらんもん買いに来たらいいち思うね。
雨が降りゃ、雨が降りゃお客さんがなかというなんて、決めてしまわずにです、もう雨、雨が降る時(?)なからなければ、外には出られんという人がごく少数割か、その少数人が皆がそこへ行っているようなおかげ、お繰り合わせを何とか工夫しらいいじゃんというようにですね、私は工夫ができる。
そういう例えば、工夫精進のしておるお店なら絶対繁盛すると思う、ね。だからそういう工夫ができれるところまで行くにはです、やはり、商売なら商売の道を本当に心得て、ね。商売人の根性というものがそこに備わってくるということ、ね。
例えば、あの先月商品が(ちんめつ)しておる、ね。商品にほこり一杯かっぶておる、商品はきれいにいつも新選見える、(?)(?)。それだけでも違う、そういう例えば、ことにでも、一生懸命研究する。
だから商売人がですね、そういう研究心を行ったらもうだめです。売れんと他に、他の所為にするようなことではだめです、ね。この頃、どこの商品よりも値打ちがする。(?)いくらか高い。これで売れる、そうして神様にだけどうぞ商売が繁盛願とってよかろうはずがないやん、ね。
そこんところのいつも覚えとる、いつも変わっておる、新しい方へいよいよ、例えば商売人でいうなら、お客さんが喜んで下さるということに本気で、いわゆる、お客さん本位の商売をね、ただ、えー、言うておるだけじゃなくて、本当にお客さん本位の商売とはどういうことかということに焦点をおいて、それを研究していくといったような商売人のなら、必ず店は生き生きしてくる、商品が生き生きしてくる。
必ずお客さんがそれを認めないはずはない。お商売人はそこまで行ったら、あんたの商売はもういよいよ繁盛していくということになる。ならおかげでもそうです、ね。おかげを受ける、初めて神様が分かる、神様が分かる、信心が分かる、いわゆる、おかげが成る程これはおかげだと分かるけれどもです、ね、そこから神様が分かる。
いや、神様が分かる、神様の心が分かる、ね。神様の思いが分かる、そこから、神様のその思いに沿うていこうと。神様のお心に沿うていこうと。そこに、まぁ、結論出すならば、いわゆる、私共本位といったようなじゃなくて、神様本位の信心生活ができるようになる、ね。
神様本位の生活ができ、できる信心ができるようになるから、神様が今度は氏子本位で働いて下さるようになる。ここのねが、願う世界じゃない、ね。ですから、なら神様本位、神様本位というてもなら、神様の心が分からんで、神様本位にはなれない。
商売させてもろうてもそうでしょう。いかに、わた、お客様本位、お客様本位と言ったって、お客様が何を求めておるか、ね。お、お客様の心というものがです、微妙に動く、その微妙な心をいつも自分の研究心において、それを分かろうと、ど、努力する。
は、今のお客様はこれを求めておるんだと。だから、初めて、お客様本位ができるのである、ね。だから、お客様本位にいよいよならせて頂く、お客様の心が分かるようになったら、その商売は絶対繁盛しますよ、ね。
ところが、自分の方の算盤ばかりとってから、自分本位になってしまう。口じゃもう口の方は、お客様本位でございますからと言いながら、なんのじゃろか、自分本位で商売をしよるから、あそこの品物は悪い、あそこの品物は高い。あそこはサービスが悪かということになってくる、ね。
信心も同じこと。神様本位にならせて頂いたら、ね、そのために、いわゆる、信心が分からにゃいかん、神様の心が分からにゃいかん、神様の思いが分からなきゃいけん、ね。天地の親神様の心、天地の親神様の御恩徳が分かる、天地の通りが分かる。
天地の御恩徳が分かれば分かるほど、神恩報謝の心があつまる、有り難いという心が湧いてくる。天地の通りが分かれば、その通りに逆らう、通りに合わない生き方は馬鹿らしいて、できんごつなってくる、ね。
いうならば、天地の法則をわきまいたら、法則に従った生活ができるようになる、ね。それが神様本位の生活、生き方なんです。神様本位の信心とはそういう信心だと、ね。ですから、これは願わんでも頼まんでもおかげが受けられるわけなんです、ね。
四代金光様の御教えの中に、『氏子が神任せなら神様が氏子任せになる』と、仰せられますから。自分の都合のよか時だけ神様任せになってから、自分がちょっと都合悪かちゅうたら、絶対神様任せどころか、神様を自分任せにしようとする。
これではおかげにはならん。どこまでも徹底して、神様任せにならせて頂くところからです、神様が氏子任せになると、仰せられますというおかげになってくる。神様本位の信心、ね、始めの間はそれが分からない。
だから、自分がおかげを頂くために、あぁ、ありたい、こうして下さいというて願う。これはどこまでも、自分本位でしょう、ね。けれども、神様は、やはり、ね、ほんとに奇跡と思われるようなおかげを見せて下さる。
なんとなしに、は-,これでやっぱりおかげというもんじゃろうかというふうに分からせて頂くようになってくる。願うことが、いわば、おかげになってくる、ね。同時におかげが分かってくるということと同時に、神様が分かってくる、神様の心が分かってくる、神様の思いが分かってくる。
ですから、神様の思いに沿わせて頂く生活こそが、ね、神様の心を分からせてもらい、神様の心に叶た生活こそが、人間の幸せの土台になるものだ、基礎になるものだということが分かってくる。
だから、そこを分かろうともしないや少しは分かってもそれをその行じようともしないでは、いつまで立って堂々回り、そういう信心では自分がおかげを受けんならん時だけは、いやいやいうて参ってくるけれども、ね、それがちょっとおかげになったらようになってくるとも、気を(?)、気を緩めてしもうて、又、元に戻ってしまう。
そういう信心が一生繰り返されたってだめだ、ね。今日は、私はこの八一節からね、気を緩めんで済む信心。いよいよ願っていく一途の信心。商売でいうなら、もういよいよ繁盛一途に、繁盛していく商売のあり方。
それにはです、やはり、商売そのものに熱心にならなきゃならんということは、ただ商売一生懸命がんば、(がまだしとる)ちゅうだけじゃない、ね。いつもお客さんの心を分かろうと勤める、そして、お客さんが今、何を求めてござるかということを追求して、その求め応じていくような、し、商売、ね。
ちょっと売れ上げが減ったというたら、他の所為にせずに結局、こちらの信心、商売の不行届き、さーび、サービス不足、と分からせてもろうて再検討を加える。そういう生き方が身に付いてしまえばです、お客さんの心に沿うた商売ができる。
お客さんの心に沿うた、いわば、商売ができるのである。お客さんが求めておられる商売ができるなら、それこそ、例え田舎であっても町からでも買いに来るのおかげが受けられる、ね。例え、農繁期であってもね、商売が売れ上げ落ちるのじゃない。
今日はもう雨が降るから、(すったりじゃった)ちゅのほどは絶対ない、ね。そこに、やはり、工夫、精進。だから、その工夫、精進するそのことに対してにです、私はその商売人が生きがいを燃やすような信心でなからにゃ変わらん、設けだすことだけに一生懸命なったって、設けだすもんじゃなか。
いわゆる、お客様本位である。こんなら絶対繁盛に(?)はずがなか、ね。という(?)をもって信心のことを今日は私は申しました、ね。まず自分がおかげを受ける、おかげを受けて、神様が分かったら神様の心をいよいよ分かる、いわゆる、天地の御恩徳をいよいよ深く分かるところからね、天地の御恩徳に対して、それこそ、一つ(すくいの水でも)感謝の心が湧いてくようにならにゃだめ。
天地の通りが分かってくるから、通りに合うた、人間は万物の霊長であるから万物を見て通りに合う信心をせよと仰る、通りに合う生き方、生活ができるようになる、ね。そこから、私は神様本位、神様の心を中心にした生き方ができる。
そこには、神様が又、ね、神様の方が氏子中心で働いて下さるようになる、ね。私がね、おかげ中心で信心しておったら、絶対おかげにならん。はーもう、せっかく教会は開くならば、人がどんどんたす、助からにゃできんというてですね、ただ助かることだけを願う。信者が助かることだけを願う、ね。
お広前の建立のことだけを願う、教会が立派ならにゃならん、ね。それではね、よし助けて下さい、助けて下さいというて(ひらんだぶんで?)私が願う。まぁ、修行、断食したり水かかったりしてから願う。だからそこに助かることができるかもしれん。
けれどもね、ただ信者がそういう意味合いで助かるというのは、ただ信者がおかげを頂くということだけであったら、ね、こんなお広前の建立何かできやせん、ね。だから信者が助かるということは、根本的に助かることは、信者が信心を分かるということ。
これはおかげじゃないでしょう。信者が信心を分かるということを願う。ならどうぞ、神様信者に信心を分からせて下さい、分からせて下さいというて、信心ばかり言うたっちゃ、先生自身がいっちょん分かろうとせんなら、ついてくるはずなか。
そこで、ギリギリのところどういうことなるかというと、私に信心を分からせて下さい、私に良い信心をさせて下さいという生き方でいきゃ、こちらのこと頼まんでん信心の方を求めてくる信者が段々できてくる。
本当の信心を求めてくるから、ならこのような御用でもできてくるようになってくるでじゃ、ね。私が、いわゆる、神様の心を分かって、神様の心を深く、私が神様の心に沿うて、一生懸命勤めてさえおればです、ね、助かることもできる、信心も分かっていく信者ができてくると私は信じておる。
なら現在ではもうこの程度ですけれども、なら私がいよいよ分かることに勤める。この頃どうも朝のお参りが少のうなった、ね。どんなわけじゃろうか。今日は雨が降るけんじゃろうか。今日は暑かかい、やろうかと、いうて暑かけん寒かけん雨が降るけんぐらいなことに、に私がもし原因をおいとるとするなら、もうそのここの教会は発展せんと思う、ね。
ですから、ここでは皆さんが雨が降ろうが照ろうが、農繁期であろうが農閑期であろうが、このお届け帳にだいたいつく、ね、このお届けに記させて頂けれる人は、又、お初穂を整理させてもらって、お初穂の(たか)は絶対落ちるようなことはない、もちろん、落ちるところか、いわゆる、一日一日やっぱりいくら暑つでも増えてきよる。
まぁ、これは私が神様の心を分かってからその心にいよいよ沿うていこうということに命をかけておる。そこに私の熱情燃やさされておる。いや、それが楽しみなんだ、それが生きがいなんだ、ね。
そこまでいくから、いわば、油断をせんで済むのであり、信心を緩めないで済むである。けれどもまだ厳密にいうとです、緩んでおることある証拠にこちらの方に響いてくる。少しでも響いてきたら、それを他の所為にせずに、こちらの所為にさせてもろうて神様へいよいよ打ち向かうていく。
いわゆる、改まっての願いができていく。限りなく改まっていくという信心ができる。だから、気が、気を緩めようがない。下へ戻る、戻りようがない、ね、ということになるのじゃないでしょうか、ね。そこで私は今日のこの八一節をですね、私共が一つの例えばおかげ、ね。
子供が言うことを聞きませんからお願いをして下さいとこういう。子供の病気親の病気というちゃるから、子供が言うことを聞かんあんたがいうことを聞かんとバイ。あんたが神様の言うことを聞かんけん、子供が言うことを聞かんというとこう教えられる。
そこで本人そうだと分からせてもろうて、改まって願う。子供がすぐおかげの印を見せてくれる、ね。だからそこまでは皆が体験しとるけれども、それを頂き抜くというところまでしない。それはまだ信心がおかげ信心止まっておるからである、ね。
いわゆる、お客様本位なっていないからである。だから売れ上げがすぐ冷えるのである。ちょっと(?)した時だけは、ばーと売れ上げ(?)ばってん、後は(?)、ね。大休みのだけをお客様本位で(?)こう出しちゃるから売れる。
良うなもんじゃないでしょう。私共の信心も同じことがいえれる、ね。はー、ほんとに子供が言うことを聞かんのは私が神様の言うことを聞かんからだと分からせてもろうて、神様の心に沿うことに勤める。
で、今度子供が親の心に沿うことにおかげが見えてくる、印が見えてくる。そうするともうそれで安心する、そこで心を緩める、そしてまた、元の自分に戻しまってくる。いわゆる、神様本位ちょっとなるけれども、すぐまた、自分本位に戻ってしもうとるから、又、子供が元のところに戻ってきておかげがいつも堂々回るである、ね。
それは私共がね、金の金光教の、その金光教とこう頂いたんですけれども、その金のおかげのところを分かっておるけれども、光のところを頂く信心ができんから。光を頂いていく楽しみの信心ができんからだと私は思う。
金光教とこう。教と教えと書いて、ね。成る程、ね、金光様の信心すりゃ、こういうおかげが受けられますというおかげも見せなければならん。同時にこれは自分自身、金光様の御信心さしてもらや、このように喜びが頂けれる、このように安心しておれれるという信心の力を頂いていかなければならん、ね。
それはそのまま教えなんです、ね。それはそのまま人にも伝わっていくのである、ね。私がいかに、どれだけ立派なことを言うてもです、私自身が、ね、おかげが頂きらんでおるならです、誰もついちゃこんです。
ほら、この神様はそれはそうでしょうが、繁盛しますよ。金の字はそんなことはないですよ。例えば、私がいかに、ねご、そのいうてから、皆さんにも話してもです、私自身がおかげの不自由ばかりしよって、総代さんあんたいついつある、いくらお金がいるやら、どげんしよかちゅうてから、総代達が相談しよらんならんようなことじゃ誰もついちゃいけませんよ、ね。
相談するなら神様のおかげじゃなかと私は思っとる。神様に相談するからには、神様の心を分からせてもろうて、どんなん相談でん神様に持ち込まれるだけのです、ね、私信用を日頃獲得しとかにゃいかんと思う、ね。
信心がそこまで私は段々やらせて頂く、いか、頂けれる、(?)いかにもできとるようにあるけれどもです、いつーもそこから私は、そのそこんところを焦点おいとる、ね。ちょっと売れ上げ増したら、ただそれに調子にのることなくですね、ちょっと売れ上げが減ったなら、ね、それを他の所為にせずにです、真剣に自分自身の信心にそれを通っていく。
そういう生き方を一つ、体得してしもうたらです、この八一節の御理解が分かったということになるのじゃないでしょうか、ね。向こうへ降りたら安心じゃと仰っておられるのは、そこんところの体得ができたら安心じゃということじゃないでしょうか、ね。
まーだ山を登っておる間は、ちょっと緩めたらもう落ちる、ね。これだけのおかげを頂かんならんからと思うて、おかげを頂かんならんからと思うて一生懸命参りよる時の信心はですね、ちょっとおかげが頂けたように見えてくると、すぐ後に戻る、ね。
ですから、向こうへ降りたら安心じゃと仰る。向こうへ降りたらということは自分に力ができてくる。徳の光がおはなつことができるようになる、ね。それが有り難い、それが楽しみということになってくる。
いうならば、自分本位に神様を使おうと思っておった時代の信心はすぐ後へ戻る。もうこらしく参ったばってんおかげを頂き切らんじゃったというて、戻ってしまう、ね。けれども、神様本位にならせて頂く信心なったらもういうならば、それはね、少しの(きゅうく)あるにいたしましてもです、ね、戻りようがない。
どうぞ一つ、せっかつ信心させてもらうならね、神様の、神様本位の信心をさせてもろうて、ね、氏子が神様本位なら神様が今度は、氏子本位になって下さるほどしのおかげの頂けれるところまで私の頂いた時に安心じゃということがいえれるのじゃないでしょうか。
商売するなら本気で一つ、お客様本位なってみにゃいけん、ね。お客様本位なって、お客様の心を分かることに勤めにゃいけん、ね。そしたらね、もうあんたところの商売は絶対私は受けようて、繁盛することを受けよる、ね。
自分方設けんごつばっかり考えたら、まだ自分本位。お客様本位、お客様からだまされんござるようなもんじゃ。だからだまされたっちゃすぐ(はげる)はず。あーちの店はあまり信用にならん。あっちはどこへも高いというなことになってくる。
お客様本位でないから、ね。目先は例えば、(?)あっても、本気でお客さんが喜んで下さることのための商売。そうなら、その商売は繁盛せんはずがないって、絶対、ね。信心でもそうです。自分が喜ぶためのものじゃなくてですね、神様が喜んで下さる生き方ならにゃいかん、ね。
だから喜びが返って来る。人が喜ぶ、とにかく自分が喜ぼうと思えば、まず人がよろ、人に喜ばせろと、いわれております。自分だけが喜ぼうというたって誰もいらん、ね。自分の周囲の人が喜ばれるような働きにこちらがなってくる時にです、その喜びはこちらへ必ず返って来る、ね。
人に喜ばせることに一生懸命勤めたら、こちらへその喜び返って来るその余波でいつも心の中に喜びが(たえない)ほどしおかげが受けられる。自分で喜びを求めようとするところにね、与えられない。又は、与えられてもすぐ後へ戻ってしまうというような結果になる、ね。
だからそういう一つ、あり方に本気でなってしまうというところにです、後戻りをせんで済む信心が頂けると私は思うんです、ね。どうぞ、今日も八一節をそういう意味合で、頂きましてですね。
安心、向こうへ降りたら安心じゃというところまで一つ、頂かにゃいかんですね。気を緩めるとすぐに後へ戻る、ね。もう緩めようのない信心、それにはどこまでも一つ、神様本位の信心、神様が喜んで頂くことのための信心を体得させて頂いたら、有り難いですね。どうぞ。